ランチタイムの女子会で、友達が恋愛の話を始める。
「昨日彼とケンカしちゃって〜」 「でも仲直りのキスが甘くて〜」 「やっぱり好きって気持ちが止まらなくて〜」
みんな楽しそうに話を聞いて、「わかるー!」と盛り上がっている。
でも私だけ、なぜかその輪の中にいるのに、まるで外国語を聞いているような感覚になってしまう。
共感できない自分への違和感
「恋愛あるある」の話題で盛り上がる場面で、いつも感じる居心地の悪さ。
みんなが経験している「当たり前」のことが、私には全然当たり前じゃない。
彼氏とのやり取りでドキドキする話、ケンカして泣いた話、甘い言葉をかけられて嬉しかった話。それらすべてが、まるで別世界の出来事のように感じられる。
「うんうん」「そうだね」と相づちを打つけれど、心の中では「本当にそんな風に感じるものなの?」という疑問がわいてくる。
共感できない自分が、なんだか冷たい人間のような気がして、余計に寂しくなる。
恋愛の「普通」がわからない
友達の話を聞いていると、みんな当然のように恋愛の「お作法」を知っているように見える。
どのタイミングで告白すればいいのか、付き合い始めたらどんな風に接すればいいのか、ケンカしたときの仲直りの仕方。まるで生まれつき備わっているスキルのように、自然にやっている。
でも私には、そのすべてが未知の領域。
大学でコミュニケーション学を学んでいたとき、人間関係の理論は頭では理解できた。でも恋愛における感情の動きや、相手との距離感の取り方は、教科書には載っていない。
みんなは一体いつ、どこで、そんなことを覚えたのだろう。
体験の差が作る壁
友達の恋愛体験談を聞いていて感じるのは、圧倒的な体験の差。
恋愛経験が豊富な友達にとっては「よくある話」でも、私にとっては想像もつかない世界。その差が、見えない壁を作っているような気がする。
「恋愛って大変だよね」と言われても、その「大変さ」がどんなものなのかピンとこない。
「好きな人ができると夜も眠れなくなる」と聞いても、本当にそんなことがあるのか半信半疑。
こんな風に思ってしまう自分が、なんだか人間として欠けているような気がして不安になる。
理想と現実のギャップ
映画や小説で描かれる恋愛と、友達が話す現実の恋愛。
どちらも私には遠い世界の話に感じられる。
友達の話は生々しくてリアルだけれど、だからこそ「本当にこれが恋愛なの?」と思ってしまうことがある。もっとロマンチックで、もっと特別なものだと思っていた。
でも一方で、映画のような恋愛を期待しすぎている自分もいる。現実はもっと地味で、もっと複雑で、もっと面倒なものなのかもしれない。
どちらが正しいのかわからないまま、自分だけが置いてけぼりにされているような感覚。
一人だけ違う言語を話している感覚
恋愛体験談を聞いているとき、時々感じるのは「一人だけ違う言語を話している」ような感覚。
みんなが同じ体験を共有していて、同じ感情を理解し合っているのに、私だけがその輪の外にいる。
翻訳が必要な感じ。「彼氏に冷たくされた」と言われても、それがどの程度の「冷たさ」なのか、どんな風に傷ついたのか、具体的にイメージができない。
そして、そんな自分を理解してくれる人がいないことの孤独。
共感できなくても大丈夫
でも最近、少しずつ気づいたことがある。
共感できないことは、決して悪いことではない。
人にはそれぞれのペースがある。恋愛に対するアプローチも、感じ方も、すべて人それぞれ。早く経験することが良いとか、多く経験することが良いということはない。
私は私のペースで、私なりの恋愛観を育てていけばいい。
友達の体験談に共感できなくても、それは私が冷たいからではない。ただ、まだその段階にいないだけ。
自分だけの感覚を大切に
友達の話を聞いて「そんなものかな」と思うことがあっても、無理に合わせる必要はない。
私には私なりの恋愛観がある。まだ形になっていないかもしれないけれど、きっと私らしい感じ方や愛し方がある。
それを大切にして、自分のペースで育てていこう。
いつか私も、自分なりの恋愛体験談を話せる日が来るかもしれない。そのとき、今度は私の話に共感できない誰かがいるかもしれない。
でもそれでいい。みんな違って、みんな自分らしくて、それでいい。
今の自分の感性を信じよう
共感できない自分を責めなくてもいい。
私は私のペースで、私なりの方法で、人を好きになっていけばいい。
友達の体験談は参考程度に聞いて、でも自分の感覚を一番大切にしよう。
きっと私にも、私らしい恋愛が待っている。それがいつになるかはわからないけれど、その時が来るまで、今の自分を大切に過ごしていこう。
共感できないことも、私らしさの一部。それでいいんだ。