夜中に一人でいると、ふと思う。
誰かに守ってもらいたい。優しく包み込んでもらいたい。「大丈夫だよ」と言ってもらいたい。
でも朝になると、いつものように一人で全部やろうとしている自分がいる。
この矛盾する気持ちに、もう何年も悩んでいる。
「強い子」として育った記憶
私は小さい頃から「しっかりしている」と言われて育った。
親が忙しかったから、自然と一人でできることは一人でやるようになった。困ったときも、まず自分で何とかしようとする癖がついた。
「この子は手がかからない」「自立している」「偉いね」
そんな言葉をかけられるたび、嬉しかった。でも同時に、甘えることは良くないことなんだと学んでしまった。
頼ることは迷惑をかけること。弱音を吐くことは情けないこと。そんな風に思い込んでしまった。
守ってもらいたい気持ちの正体
でも本当は、誰よりも守ってもらいたかった。
疲れたときに「お疲れさま」と言ってもらいたい。 不安なときに「大丈夫」と言ってもらいたい。 頑張っているときに「よく頑張っているね」と認めてもらいたい。
これらは決して贅沢な願いではない。人間として当然の欲求。でも長い間、それを封じ込めてきた。
大学でコミュニケーション学を学んでいたとき、人間の基本的欲求について学んだ。安全でいたい、愛されたい、認められたい。これらは生きていく上で欠かせない感情だと。
私の「守ってもらいたい」という気持ちも、決して弱さではなく、人として自然な感情なのだと気づいた。
頼ることへの罪悪感
それでも、実際に人に頼るのは難しい。
「この程度のことで頼っていいのかな」 「迷惑をかけているんじゃないかな」 「自分でできることは自分でやるべきでは」
そんな声が頭の中でぐるぐると回る。
特に辛いのは、誰かが親切にしてくれたときの罪悪感。素直に甘えることができずに、「ありがとうございます、でも大丈夫です」と言ってしまう。
本当は甘えたいのに。本当は頼りたいのに。
自立と依存の間で
私たちは「自立」を美徳として教えられて育つ。確かに自立は大切。でも、完全に一人で生きることなんてできない。
人間は本来、お互いに支え合って生きる生き物。適度に頼り、適度に頼られることで、健全な関係が築かれる。
でも私は長い間、「頼る=弱い」「頼られる=強い」という単純な図式で考えていた。
実際には、適切に頼れることも一つの強さ。そして誰かに頼られることで、その人も自分の価値を感じられる。
完璧でなくてもいい関係
私が変わり始めたきっかけは、とても小さなことだった。
体調を崩して一人で家にいたとき、友人が心配して連絡をくれた。いつもなら「大丈夫です」と答えるところを、その日はなぜか「実は辛くて」と本音を漏らした。
すると彼女は、すぐに買い物に行って食材を届けてくれた。「頼ってくれてありがとう」と言いながら。
その時初めて気づいた。頼ることは、相手に迷惑をかけることではなく、相手に役に立つ機会を与えることでもあるのだと。
少しずつ甘えることから
いきなり全部を変える必要はない。
まずは小さなことから。疲れたときに「疲れた」と言ってみる。困ったときに「困った」と表現してみる。
「手伝って」ではなく「一緒にいてくれる?」から始めてもいい。 「助けて」ではなく「話を聞いてくれる?」から始めてもいい。
私も最初は恥ずかしかった。でも少しずつ慣れてくると、頼ることで相手との距離が縮まることに気づいた。
守られる強さ
守ってもらうことは、弱いことではない。
自分の弱さや不安を受け入れ、それを誰かに委ねることができるのは、実はとても勇気のいることだから。
そして守ってもらった経験がある人は、今度は誰かを守ることができる。愛されたことがある人は、誰かを愛することができる。
あなたの願いは当然のもの
守ってもらいたいという気持ちを、恥じる必要はない。
それは人として当然の感情。そしてその気持ちを表現することも、決して悪いことではない。
あなたが今まで一人で頑張ってきたこと、それはとても立派なこと。でも、たまには誰かに頼ってもいい。たまには甘えてもいい。
頼れる関係を築いていこう
理想的な関係は、お互いが守り合える関係。
あなたが相手を支えることもあれば、相手があなたを支えることもある。そんな相互的な関係。
完璧でいる必要はない。強くいる必要もない。
時には弱さを見せて、時には頼って、時には甘えて。そうやって人とのつながりを深めていこう。
あなたを守りたいと思っている人は、きっとどこかにいる。その人に出会うためにも、まず自分の「守ってもらいたい」という気持ちを大切にしよう。
あなたの弱さも、あなたの強さも、すべてがあなたらしさ。そのすべてを受け入れてくれる人との出会いを信じて。